運動科学者・高岡英夫は、書籍「武蔵とイチロー」(小学館文庫)の中で、極意を用いた動きと、極意を用いない通常の動き(これを高岡はレギュラー・ムーブと概念化しています)の違いを科学的に計測されたデータを用いて、明確に解説しています。高岡の定義する極意とは、簡単に説明しておくと、意識が極まった状態を指していて、その極まる方向性は人間にとってプラスの価値となる方向としています。またこの場合の極まった意識とは、身体と意識の間にある階層としての身体意識を表しています。つまり極意とは、身体意識が人間にとってプラスの価値をもたらす方向に極まったものを指すわけです。そして身体意識とは、武術などで用いられる正中線や体軸、丹田の他にもバレエのセンターなど、その存在を知られているものの他に、知られていないものもあるとのこと。とりあえず極意の解説はこのくらいにして、話を先に進めます。
極意を使った日本刀の突きと、レギュラームーブによるものとの比較を、剣尖のトップスピードと、所要時間の関係でグラフに書き出したものがあるのですが、これが驚くべき結果をもたらしているのです。(実験の詳細は、「武蔵とイチロー」P88:科学的データが測定した達人のスピード参照)
最初にレギュラー・ムーブを説明しておくと、この場合時間をかけるほど、トップスピードが速くなります。逆に時間をかけないと十分な速さが出ません。これは経験的にも理解できる話です。予備動作をある程度取った方が、バットやラケットのスイングの速さを出しやすいのは、誰もが経験していることでしょう。また自転車であろうが、F1であろうが、最高速度に達するためには、ある程度の時間がかかります。逆にスタート直後は、あまりスピードが上がりません。つまりトップスピードと所要時間は、ある程度まで比例するということになります。日本刀ならトップスピードで斬撃力がマックスとなりますから、トップスピードに到るまでの所要時間は、生死を分ける境目になるということは、容易に理解できることでしょう。
では極意を用いた場合どうなるか。これが驚くことに、トップスピードが速いほど所要時間が短いという、レギュラー・ムーブとは正反対の結果となったのです。これを解析した横浜国大の伊藤信之助教授(当時。現在は教授)は、何かの間違いかと思い、機械を点検したそうです。それくらいバイオメカニクス的にありえない結果が、何度やっても出たのでした。つまり極意を用いると、トップスピードと所要時間の関係が反比例になるのです。両者を比較すると、極意を用いた場合、レギュラー・ムーブの半分の時間で、トップスピードに達しています。ということは、レギュラームーブが動き出してから反応しても、後から動き出した極意の勝ちということになるわけです。(実験の詳細は、書籍「武蔵とイチロー」をご覧ください。)
さて、これはあくまでも例なので、ここではレギュラームーブと極意の違いが、「所要時間が長いほど速くなる」に対して「所要時間が短いほど速くなる」というところを押さえておいて下さい。
ここからはアクションの話です。
アクションで取り上げたいのは、振り付けに要する時間、それを覚えるのに要する時間、リハーサルする時間・・・というように、振り付けから本番に至るまでの時間についてです。これは振り付け時間という観点からは、殺陣師の技量ということになりますし、それを覚え、リハーサルし・・・という過程では演者の技量ということになります。何れにしても共通するのは、常識に反して所要時間が短いほど技量が高い、というアクション業界の共通認識です。
これはあくまでも経験則なのですが、多様な現場経験がある人ほど結果的に、時間の長さと技量が反比例するということに気づいています。(もし知らない人がいたらモグリです。それがわからない人、感じられない人は、未熟者です。)
これを前記した、極意とレギュラー・ムーブの関係に当てはめてみると、まさに所要時間と技量の関係が、極意と同じであることに気づかれることでしょう。ということは、所要時間の短さと技量の高さの比例(=時短性、または即時性としておきます。)は、極意的であると考えられるのです。
もちろん技量の高さがハンパない、まさに達人レベルに達しているという前提ではあります。それにしてもこの即時性は、プロとしての最低限の基準になっているという点で、アクションの持つ本質的な極意性を表していると、私は考えます。これは他の分野では見られない、アクション独自の大いなる特性であるのです。
しかしながら、この高度な能力をあまりにも簡単に使いこなしてしまっているがゆえ、その価値を客観的に評価できていないのがアクション業界なのです。そこにアクション業界人の悲劇があるのではないでしょうか。そういった点に、今一度スポットを当てて再考を促しているのが、実は書籍「アクション進化論」なのです。
とはいえ、前述した即時性能力の獲得と技量は、必ずしも両立するわけではありません。ただし順番は確実にあって、即時性能力が先に来ることは間違いないのです。そして、これの能力を獲得するためには、最低限の運動能力が要求されます。だからこそプロは、結果的なことなのかもしれませんが、はじめに基礎体力を養成することを主眼とするのです。そしてアクションにとって、基礎体力養成に最も有効だったのが、マット運動を中心とした器械体操系の練習でした。もちろん最初からアクションに必要な、機動性を高める訓練を意図して導入されたかどうかは定かではありません。おそらくそうではなく、むしろスタントマンの養成に有効である、という観点の方が高かったはずです。しかし、結果的にはアクションの身体能力、その土台形成に有効であったところから、定着したとは言えるでしょう。
ここで見落としてはならないのが、機動性の獲得という視点です。これはアクションの身体表現性と関わってくる問題なのですが、高い機動性の要求は、アクションが身体表現として成立するために必要な条件であり、決して技のためではないのです。
スタントが身体表現であるか否かは、判断が分かれるところでありますが、非言語であるという観点では、身体表現にカテゴライズされることでしょう。しかし身体表現そのものの定義を厳密化していくと、その範疇から外れる可能性もあります。私の考える最低限の条件は、見世物とし成立するための時間的尺度を満たすことができるということです。そうなると、ほとんど全ての直接的身体運動系スタントは、それだけでは瞬間芸的なものであるわけですから、身体表現には満たない、身体表現未満の運動に留まっていると考えた方が自然です。
それに対して、アクションが身体表現として成立した背景には、立回りの存在があります。リアルに考えるなら、単なるケンカか、または殺害シーンに過ぎない短時間の闘争を見世物化するためには、立回りという独自の熟成された技法が必要なのであり、それは実在する武術などの技法とは、設計原理が根本的に異なるものなのです。その違いが、身体表現として成立させるための方法論ということになります。
そして立回りが、日本刀によるチャンバラに留まっていた時期は、俳優の身体能力の延長で対応できていたかもしれませんが、それが徒手格闘に転移したことにより、必然的により高い機動性を要求されることになりました。その理由は二つあります。双方が刀を持っているチャンバラでは、攻防のタイミングを合わせる許容範囲が広範囲にわたっていたため、動作のシンクロに余裕がありました。双方の持つ刀の長さが、タイミングがズレた場合の誤差修正を容易にしていたからです。例えば、タイミングが遅れた場合、腕を伸ばすことで、なんとか帳尻を合わせ、リカバリーすることは可能です。だからそれ以降の主役の動作リズムを崩さずに、立回りを進行することができるのです。それが徒手格闘に転じたとたん、許容範囲が一気に狭くなり、間合いも近くなったため、シンクロの幅が極端に狭くなりました。手足の間合いは、刀の間合いよりも近い上に、手足は刀より短いですから、そのままではタイミングの遅れを簡単に修正することはできません。そのためには、機動性を高めることで対応するしかなかったのです。
もう一つの理由は、日本で確立された立回りがチャンバラ期に、すでに表現としての間合いを最適化していたことがあります。これはやられ役が、自分の番が来るまでは、全体の構図として見栄えのいい遠間の位置で牽制し、自分が掛かっていく時だけ、主役に最適な間合いで、なおかつベストなタイミングで接近するという、高度な間合い制御技術でした。それがスタンダード化され、ほとんど全てのやられ役が使いこなしていたのです。これはおそらく、日本人の識字率の高さに匹敵する、世界的にみても驚異的な技術性であるはずです。しかも制度化された中での学習体系が完備されている学校制度なしに、スタンダード化されていたということ自体が、日本の前アクション段階であるチャンバラ期の、世界に誇るべき凄さ、=極意性の普及度の高さなのです。そしてこの高度な間合いに対する感覚と、制御技術が徒手格闘の立回りに転移されたことで、さらなる高度化が成されました。これこそが、私が提唱している「日本はアクション先進国である」という根拠の一つなのです。そしてまた、これもアクションの極意性を支える一つと考えられるでしょう。・・・
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