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アクションとは総合化

アクションとは何か。その定義をひとことで言うならば、それがまさに「総合化」なのです。もう少し詳しく言うなら、「俳優への総合化」であり、何の?と問われるならば、「高度化した身体運動」の、ということになります。

つまり、「俳優への高度化した身体運動の総合化」こそが、実体の見えにくいアクションの真の姿であり、また本質的定義でもあるのです。


では解説です。

まあ、ぶっちゃけて言えば、俳優が何でも自分でやるということですね。その「何でも」の中に高度化した身体運動も含まれるわけです。


まずはアクションの前段階として、チャンバラについて考えてみることにしましょう。チャンバラがアクションではなく、その前段階=プレ・アクションであることの根拠は、定義に基づいて考えるならば、総合化がなされていないからということになります。

チャンバラ・スターを思い起こしてみると、チャンバラ以外の激しい、高度化した身体運動についてはあまり取り込まれていないように思われます。もちろんこれは、チャンバラが高度な身体運動ではないという意味ではありません。そうではないのですが、スポーツ的な運動量の多さを含むチャンバラ以外の運動は、ほとんど行われていないという意味においては、総合化されていないと考えていいでしょう。

しかし、立回りという格闘表現の基本技術は完全に確立されているわけで、日本のアクションが高度化した理由は、チャンバラ期の立回り技術の確立という土台があったからに他なりません。この土台があったからこそ、徒手格闘の立回りにスムースに移行でき、なおかつ高度化されていくことができたのです。


これが立回りの変遷にみるアクション成立の要因の一つである一方、これだけでは不十分です。もちろん足りないのは総合化ということですね。


例えばスタントやアクロバティックな動きというのものは、現在でもアクションとの関係において、誤解を受けていると言えるのではないでしょうか。それはスタントやアクロバティックな動きそのものが、アクションだと思われているという一般的な認識です。もちろんこれは業界人にも広まっているものなのですが。

ここまでお読みいただければわかるかと思いますが、アクションにとってスタントやアクロバットは、高度な身体運動の総合化の一環として取り込まれたものであって、それ自体はアクションではないのです。その証拠に、それぞれ独自の名前が着いているではありませんか。それは空手であっても、器械体操であっても同様です。もちろんそれらが、アクションの技術を高みに引き上げることに貢献したことは間違いありません。しかしそれ自体は、利用しているだけであってアクションそのものではないのです。


では、総合化とは何か?もう一度確認しておきましょう。

それは言い換えれば、俳優が全てのシーンを自分で演じたいと強く思い、それを実行に移した時に、必然的に危険なシーンや立回りなど、高度な身体運動が要求される動きまで実演することになりました。それはスポーツ選手の役ならば、その競技をプロ並みにこなすことなども含まれたはずです。そういった形で、全てを自分で演じるという行為が総合化となっていったわけです。そういった過程を経て、徒手格闘による立回りやスタント、またアクロバットが定番化していったということ。

その中でも、徒手格闘の立回りは前述した通り、チャンバラから引き継がれてきた、言わば伝統的な文化の継承発展形として、アクション表現の軸となることは必然でした。だからこそそれ以外の要素は、総合化という形でアクションに集約されてきた要素の一つででしかありませんから、立回りに直接結びつかない動きというものは、全て異分野要素であるわけです。


そしてもう一つ忘れてはならないのが、俳優という存在です。原点は、俳優が全て自分で演ずるという強い意志を持ったところにあります。だから「俳優が行う」、ということを外したアクションは、それ自体がアクションではないということになるのです。つまりスタントマンが行なっていることは、厳密にはアクションではないということですね。

アクションとは表現であり、運動そのものではないのです。それが基本であり、その上で独自性が確立されたものだけが、アクション独自の身体運動=アクション運動として認められるのです。

そして、私が俳優にこだわるのは、これを外してはアクションが成立しないからである、ということはご理解いただけることでしょう。これが現在、私が俳優にしかアクションを指導していない理由でもあります。


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