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殺陣と立回り

今回は、日本において、かつてはアクションに相当していた「殺陣」や「立回り」といった言葉の意味から、それらの本質をあぶり出してみることにする。 

参考資料は広辞苑と、おなじみ永田哲朗の名著「殺陣 チャンバラ映画史」(現代教養文庫)だ。 


「殺陣 チャンバラ映画史」によると、「タテ」は立回りの「立」の字をとって略称されたという説が普通だそうだ。しかし当て字としての殺陣も享和三年に出された「戯場訓蒙図彙」に「殺陣」と書いて「たちうち」とふりがながしてあり、さらに「三個殺陣」と書いて「さんにんのたて」と読ませているところから、もとから歌舞伎にあったとしている。 

もう一つ気になる記述は、享保年間には、二人で斬り合ったりすることや組討ちを立ち回り、大勢の場合をタテといって使い分けていたが、明治以降混同して使われるようになったとのこと。これは国立劇場政策室長の織田絋二氏の証言だそうだ。 

これらを前提として、言語の意味論から、殺陣、立回りについて考察してみることにする。もちろんその際の判断基準は、僕が実体験してきたアクションや殺陣、それからその界隈にまつわる人々、そこにうごめく独特の価値観などがベースとなっているため、普通の研究者では調べることはできても、判断することはできない、もしくは判断を誤る可能性がある。そういった領域の問題を扱っているということは最初に断っておこう。 

まずは、「殺陣「と「立回り」の関係からいってみよう。前記した通り、殺陣とは立回りの「立ち」=「立て」から来ているという流れが一つある。だから殺陣については「立ち」=「立て」というところを導入として考えていけばいいだろう。 

それから立回りについては、立回りの他にも立ち回るという語もあるわけで、こちらの辞書的意味が語源的に参考となる。それから立回りという語を分解すると、「立ち」と「回り」になるわけだから、前者の「立ち」は殺陣とのつながりがあるところから切り離すとすれば、「回り」も別の意味があり、双方が欠くべからざる「立回り」成立の必須要素となっている可能性大と考えられるだろう。でなければ「立ち」だけで語が成立しているはずだからだ。そういったところから、分解して考察してみるという角度もあるだろう。 

では順番に考えてみることにする。 


第一に、「殺陣」〜「(立回りの)立ち」〜「立て」だ。立ち、もしくは立てとは、要するに「立てる」ということであろう。そこで広辞苑で「立てる」を調べると関連ありそうな意味には、次のようなものがある。 


立てる: 

事物に盛んな運動を起こさせ、姿をはっきり現わさせる。 

物事をあらわにする。 

人に知れるようにする。 

作用を激しくさせる。 

ある所に在るものを他へ目立ってはっきりと動かす。 

位置につかせる。位につかせる。 

主とする。もっぱらに行う。 

損なわれないように保たせる。 

一段高いものとしてたっとぶ。 

これらの意味を眺めていると、そこから浮かび上がってくるアクション的意味合いは、「主役を立てる」ということなのではないか。主役を立てる=目立たさせる。つまり初期のアクション的表現においては、格闘以前に主役を目立たせるための方法論として確立された可能性があるわけだ。これは振り付けの際の配置による技法が確立されている点から、容易に推測されることだ。単純な話、主役が真ん中で立っているとすると、それを目立たさせるために、周りに配置された人は、姿勢を低くするなどして、主役を中心とした山形の全体像が形成されるように位置関係などを調整するわけだ。このようにするだけで、主役が目立ち、なおかつカッコよく見えるのである。このことから、「殺陣」=「立て」=「立てる」=「主役を立てる」=「主役を目立たさせる」、そのための表現技法という流れが浮かび上がってくるだろう。この点は、織田絋二氏の証言と大筋一致することになる。大勢の中で目立たさせる手法=タテということだ。

 

次に「立回り」である。立回りの辞書的意味は、次のようなものだ。 


立回り: 

人にとの間に立ってあれこれと振舞うこと。 

演劇・映画などで演ずる格闘。 

そして立回りとは、立ち回ることであるわけだから、そちらの意味も調べておく。 

立ち回る: 

人々の間に立って、世話をする。 

また、人々の間をうまく行き来して、自分が有利になるようにする。 

芝居で乱闘を演ずる。 


というわけで両者から浮かび上がってくるのは、関係性の調整というようなイメージだ。立回りにおける「人にとの間に立ってあれこれと振舞うこと」。それから立ち回るの「 人々の間に立って、世話をする。また、人々の間をうまく行き来して、自分が有利になるようにする」。後者の二番目の意味がまず気になるので、先に取り上げることにしよう。 

「人々の間をうまく行き来して、自分が有利になるようにする」とは、多勢相手のアクション冒頭で、相手を捌きながら敵の攻撃を分断している状況がイメージできるだろう。つまり主役が、人々=敵の間をうまく行き来して、自分が有利になるようにしているということとほぼ一致する。だから、まずは主役の立場での関係性の調整という意味合いがあるわけだ。

しかしそれだけでなく、「人々の間に立って、世話を」したり、「あれこれと振舞う」わけだから、特に「世話を」するという点で、これはカラミ=やられ役の主役に対する動きがイメージされる。つまり主役=シンと、やられ役=カラミ双方の関係性の調整法が意味性に含まれていることになるわけだ。だからあえてシンとかカラミに特定しないで、「関係性の調整」としたのである。だから説明的にきっちりと表記するなら、「シン、カラミそれぞれの関係性の調整法」を意味しているのが「立ち回り」全体の意味性である。格闘については、素手であろうが刀を持っていようが、激しかろうがそうでなかろうが、全ては関係性の変化ということで技術的に対処できることは、アクション構築の経験則としてプロならば理解しているわけなので、あえて言う必要はないのである。つまり日本古来の立回り文化においては、武器/徒手などを問わず振り付け構築できる方法論が存在しているということが浮かび上がってくるわけで、それは本質をついている。 


最後に「立回り」の分解である、

(立回り)−(殺陣)=(たちまわり)−(たて)=(まわり)、

この回り=回るということに言及しておこう。

この分解が成立するはずだというのは、意味論的に立回りと殺陣が共存しているという事実に基づいている。というのは、共通点はあるとして、相違点がなければどちらか一方に収束されて、もう一方は淘汰されてしかるべきだからだ。だからこそ「回り=回る」について考える必要がある。回り=回るとは、まず振り付け構築法の大原則である、主役=シンは動かずに、やられ役=カラミを動かすという技法がイメージされる。つまり主役は中央で敵を捌き、やられ役がその回りを動き回っているという状況が、主役が強そうにかつカッコよく見えるということなのだ。これが立回り文化における大発見の一つである。だからこそ、見よう見まねでやっている人たちは、そのことが全く分かっていないということが、プロから見れば一目瞭然という領域にある技法と言えるだろう。そういったわけで私なども、別に穿った見方をしているわけではないが、プロとして仕事をしている人に対して「素人」と感じることが多々あるのは、こういった大原則を押さえていないことがわかってしまうためだ。だから見よう見まねや映画の研究だけで、あとはハッタリで仕事してきたな・・・ということがバレてしまうのである。もう一つは、運動構造としての「回る」も重要な要素なのだが、今回は割愛しておく。 

ということでまとめておくと、 


立て=殺陣 

立てる+回る=立ち回る 

立て+回り=立回り 

(立回り)−(殺陣)=(たちまわり)−(たて)=(まわり) 

立てる=主役を目立たせる 

回る=振り付け構造 

立ち回る=関係性 


以上のようなことが言えるだろう。これが日本が世界に誇る立回り文化、アクション文化の本質なのだ。そういったことが、辞書的意味からでも推察できるところに、立回り文化が本質的に日本文化として根ざしていたということが理解できるのではないだろうか。



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